鳥取駅でのこと


2005年4月25日のことは忘れもしません。
わたしの彷徨いの象徴だった福知山線。
その福知山線で電車の脱線転覆事故がありました。
その当時ニュースを見ながらわたしは
あの日のことを思い出していました。

わたしはすんなり新大阪から
新幹線で帰省すればよかったのに、
大阪駅から福知山線に乗ることにしました。
それは帰省のためではなく、
失踪をしようとぼんやり考えていたためでした。
死に場所を探していました。

夏休みにアルバイトしてもらった10万円は、
アトピーに効くと紹介された本
(詐欺本?)に載ってた薬を買って、
ほとんどなくなっていました。

鳥取駅に着いたときはもう夜遅くて、
次の電車はありませんでした。
駅のベンチにぼんやりすわっていると、
猫撫で声で男の人が声をかけてきました。
わたしを家出少女だと思ったみたいです。

わたしが「向こう行けや」(大阪弁)って言うと、
その男の人の態度が急変して、
「何やこのあま、殺したろうか?」
わたしは本当に殺されると思いました。

でもその男の人はそれ以上何も言わず、
しばらくして駅舎を出ていきました。
わたしは駅前の通りの茂みに隠れるように座り込んで、
声を殺して泣きじゃくりました。

虚無、孤独、失踪、自殺願望に支配されていたわたしに、
今のようなこんな未来があったなんて、
あのころのわたしには想像できませんでした。

でもダマスコ途上のパウロに出会ってくださったイエスさまは、
わたしにも同じように現われてくださいました。
わたしを導き、でもわたしが考えた方法じゃなくて、
イエスさまの方法で、わたしを導いてくださいました。

教会の前で

今はあの道をもう一度通れと言われても通れません。
太宰治の本も三浦綾子さんの本も読む元気ありません。
4回目の聖書通読を始める元気もありません。

あのころ心の中に満ちていた、
虚無や孤独、失踪願望、自殺願望は、
いつのまにか跡形もなく消え去りました。

きょうも朝を迎えられてありがとうございます。
イエスさまがいつもともにいてくださいます。

主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。(詩篇 23篇1節)
(@新改訳2017)


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