2008年8月24日(日)


信仰から出ていないこと

私とよく似た境遇の誰か(クリスチャン)が、ある道に導かれたからと言って、私もその人と同じように導かれるとは限らないのかもと、ふと思いました。たとえが変だけど、家が同じように貧しい2人の中学生がいたとします(仮にA子、B子とします)。A子は、携帯が欲しくて、親にねだったら買ってもらえて、心から喜んでいます。B子は、携帯が欲しいけど、親のことを思って心が痛みます。でも迷った末に、親にねだって買ってもらいます。でもB子は、携帯を使ってても、心から喜べません。同じ行動をしたのに、心から喜べるA子と、心が痛むB子。この1か月のあいだ、私は、心が痛むB子と同じでした。「お金がないのに、携帯のためにお金を使わせてごめんなさい」って心でつぶやきながら、携帯を使ってると、B子は、親のふところに無邪気に飛び込むことができなくなるんです。後ろめたくて、親に自分から背を向けてしまいます。どちらの両親も、A子、B子をそれぞれ愛してるんです。A子、B子もそれぞれ、両親を愛しています。そのとき私が思ったことは、携帯そのものは悪いものではないのではないかということです。何が一番問題かというと、親に背を向けてしまうその気持ちなんです。両親はB子を愛していて、B子も両親を愛してるのに、携帯がきっかけで、愛の交わりがぎこちなくなることです。A子には、それはありませんでした。だからA子に問題はありません。携帯を使い続ける道を歩んでいくんだと思います。でもB子は、携帯のために、両親に背を向けてしまうことがつらくて仕方ありませんでした。だからとうとう、その原因となってる携帯を解約することにしました。両親に無邪気な笑顔を向けられることのほうが、何にもまして幸せだからです。B子は携帯なしの道を歩んでいきます。なお、このたとえの「携帯」の部分は、実際は別のものです。「両親」は神さま、「B子」は私です。

あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ人への手紙 14章22-23節)

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