2009年1月4日(日)


罪からの救い

きのう初夢をみました。私は会社である人に責められてました。責められた内容は覚えてないけど、私がたぶん悪いのに、私は言い返したりして、すごく怒ってました。目が覚めてショックでした。私は頭を下げたくない、素直に「ごめんなさい」を言えない者なんだと思った。イエスさまがいてくださらなければ、こんな私はたぶん地獄に落ちるんだろうなと思いました。「イエスさまの十字架に感謝します」って、少し涙ぐんで、そのまま、また眠りました。「でもこれは夢の中の話でしょ?」って思うかもしれないけど、私は起きてる時も、いろんな醜い思いが浮かんでくるので。それが夢に出てきただけだと思います。イエスさまってそういう方です。私の罪の身代わりに十字架にかかって死んでくださるために、来てくださったんです。だから私は自分の罪を洗われて、きれいになって天国に入れます。天国に入るためのパスワードは、イエスさまの十字架です。それ以外はすべてはじかれます。善行もはじかれます。それによって高ぶるからです。神さまに造られたのに、神さまに背を向けて生きること、それが罪の本質です。天国って神さまの国なんだよ。

『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒の働き 4章11-12節)

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。(ローマ人への手紙 3章20-24節)

もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。(ヨハネの手紙 第一 2章1節)

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。(ヨハネの手紙 第一 1章9-10節)

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