2009年4月12日(日)


神さまの知恵

ごはんを食べてるとき、民放はどれもうるさくて、ふと放送大学にしてみると、宇宙についての講義をやってました。アンドロメダ銀河などいろいろな望遠写真が出てきて、全部は理解できなかったけど、おもしろかったです*^^*。地上の自然もきれいで好きだけど、宇宙も神秘的できれいで好きです。こういうの見てると、やっぱりそれを造られた神さまのことを思います。自然科学に携わる人が、研究の過程で、神さまにたどりつく話はよく聞きます。神さまの創造物は、表面上の美しさだけじゃなくて、隠れた奥深くにまで、その知恵が織り込まれてるんだと思います。だから人間は、この知恵に向かうとき、自分の力で何とかしようとしたらダメだと思います。それは無知と思い上がりそのものだと思います。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。(コリント人への手紙 第一 1章18-24節)

ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。(コリント人への手紙 第一 2章12-13節)

わたしは、これをくぎって境を定め、かんぬきと戸を設けて、言った。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ。」と。(ヨブ記 38章10-11節)

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