2009年7月31日(金)


2つの信仰

こないだから考えてること。「今の私を神さまは変えてくださる」という「望む」信仰と、「神さまは私をこんなふうに造ってくださった」という「感謝」の信仰。神さまはどちらを喜ばれるんだろう?現に神さまは私をこんなふうに造ってくださってるのに、それを変えてくださることばっかり望むのは、神さまのみこころよりも、自分の思いを優先してるような気がして、神さまを悲しませるような気がするのです。人間は自分が変わること(人間社会で欠点と評価されるものを克服すること)がいいことのように思いがちだけど、神さまがこんな私をこの場所に置いておきたいと思ってるなら、そのことを感謝するほうがいいのかもと思うんです。「まだ見てないものを望む信仰」は、信仰深くて立派に見えるかもしれないけど(聖書の中にもその実例があちこちにあるけど)、自分で変われるならそれでもいいけど、無理に変わろうとする(神さまに「自分を変えてください」と要求する)のは、みこころじゃないような気がします。私をこんなふうに造ってくださった神さまに感謝して、ニコニコしてるのが、神さまは一番うれしいような気がします。

ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。(コリント人への手紙 第一 7章17-24節)

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