2009年9月22日(火)


見たいと願っていた

私はかつて太宰治のファンでした(今もそうかも)。きょう久しぶりに佐古純一郎さんの文章「太宰治におけるデカダンスの倫理」を読んでると、思わず涙ぐんでしまいました。太宰はホントに熱心に聖書を読んでたようです。そして自分の小説にも、頻繁に、聖句を引用していました。太宰の罪意識、苦悩の原点は、「自分の家が大地主(父と長兄は衆議院議員などを勤めた家柄)なのは、まわりの小作人たちから搾取した結果」だと思っていたことのようです。だから太宰は、作家として売れても、決して立派な家に住もうとしませんでした。太宰は聖書のすべてを律法的に受け取ったのかどうか、それはわかりません。でもこの世の人が聖書を受け取る態度は、どうしても律法的になってしまうみたいです。それを守れなければ、神さまのところには行けないと思うのです。福音を福音として受け取れない。イエスさまの十字架は自分の罪のためだと信じられない。太宰だけでなく、今も日本や世界のあちこちにこういう人がいるような気がして、涙が出ます。神さまはこういう人をどうなさるんだろう?太宰のことはどうなさったんだろう?だから私が神さまのところに来れたのは、ある意味、奇跡だと思います。でも神さまにはどんなことでもできるのです。だから自分でがんばるのをやめて、神さまに幼子みたいにお願いしてみてほしいです。そしたらきっと神さまのところに来れますから。

キリスト主義といえば、私はいまそれこそ文字通りのあばら家に住んでいます。私だってそれは人並の家に住みたいとは思っています。子供も可哀そうだと思うこともあります。けれども私にはどうしてもいい家に住めないのです。それはプロレタリア意識とか、プロレタリアイデオロギーとか、そんなものから教えられたものでなく、キリストの汝等己を愛する如く隣人を愛せよという言葉をへんに頑固に思いこんでしまっているらしい。しかし己を愛する如く隣人を愛するということは、とてもやり切れるものではないと、この頃つくづく考えてきました。人間はみな同じものだ。そういう思想はただ人を自殺にかり立てるだけのものではないでしょうか。キリストの己を愛するが如く汝の隣人を愛せよという言葉を、私はきっと違った解釈をしているのではなかろうか。あれはもっと別の意味があるのではなかろうか。そう考えた時、己を愛するが如くという言葉が思い出される。やはり己も愛さなければいけない。己を嫌って、或いは己を虐げて人を愛するのでは、自殺よりほかはないのが当然だということを、かすかに気がついてきましたが、然しそれはただ理窟です。自分の世の中の人に対する感情はやはりいつもはにかみで、背の丈を二寸くらい低くして歩いていなければいけないような実感をもって生きてきました。こんなところにも、私の文学の根拠があるような気がするのです。(太宰治「わが半生を語る」より引用)

ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」それからイエスは、弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われた。「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」(ルカの福音書 10章21-24節)

さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。(コリント人への手紙 第一 2章1-2節)

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