2010年12月26日(日)


旧約聖書を読むときも

聖書通読は今エレミヤ書を読んでるのですが、神さまの民とされたイスラエルが神さまのみことばに従わず、自分の判断で歩み、神さま以外の偶像に拠り頼んでしまうことに対して、神さまが裁きを下される記述が繰り返し出てきます。私はそれを読みながら、このイスラエルの歩みは私自身の歩みでもあるような気がして、今でもときどき苦しくなります。そして「あの人の言うことはホントは正しくて、私のほうが悪かったのかも」という思いにとらわれてしまうのです。私を苦しめた律法的なあの人。だから私はあの人に心の悩みをほとんど相談できませんでした。そして私は教会に行けなくなりました。神さまに従いきれない私が悪いのかもと思いました。でもその後、岩本遠億さんをはじめ、他の教会の方に出会い、心が解放されるようになりました。人は性格がそれぞれ違うから、悩みの種類もそれぞれ違います。あの人は私の悩みがわからなかっただけなんだと思いました。イエスさまはみことばに従いきれない私の弱さのためにも十字架にかかってくださったのに、そのことを忘れていました。旧約聖書にはイエスさまは出てきませんが、旧約聖書を読むときもイエスさまの十字架をいつも忘れないようにしなければいけないんです。イスラエルの民の弱さ(罪)を裁きながら、彼らをあわれんで、後にイエスさまをくださった神さま。だから旧約聖書を読みながら、「私はイスラエルの民と同じだ。ひょっとして、ひとりぼっちになってしまったのも、体調が悪いのも、神さまの裁きなんだろうか」って思う必要はないのです。十字架でご自身のいのちを捨ててまで私を救おうとするほど、私はイエスさまに(神さまに)愛されてる!そのことをいつも忘れないようにしたいと思います。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。(ガラテヤ人への手紙 2章20-21節)

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