2011年1月29日(土)


弱いことと誤解されること

これは神さまからのプレゼントのような気がします。弱いと自分の力で何とかできないので、心は神さまのほうに向かいます。また人から誤解を受けると、ひとりぼっちになって、悔しくてさみしくて、やっぱり心は神さまのほうに向かいます。神さまのほうに向いたら、神さまも私を慰めてくださいます。そして神さまはこの世にはない喜びで私の心を満たしてくださいます。人に同情され、助けてもらえて、親切にされたら、たぶん私は神さまよりも人にすがったでしょう。人に望みをかけると、やがて失望します。人の心は変わっていきます。でも変わらないものがあるのです。神さまはそのことを私に教えてくださいました。

また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(コリント人への手紙 第二 12章7-9節)

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。(マタイの福音書 5章10-12節)

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(ヘブル人への手紙 13章8節)

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