2011年3月22日(火)


弱くされること

弱くされて、神さまに拠り頼んで、福音を伝えるんだと思う。パウロの弱さや三浦綾子さんの弱さを思ったとき、自分の弱さがうれしかった。一息ついてほっとしたら、イエスさまを思って涙が出ました。もし私がもう少し強かったら、イエスさまはもう少し遠くて、私はイエスさまをこんなに喜べないかもしれない。十字架につけられるために弱くなってくださったイエスさまは、弱くされた人とともにいてくださいます。

さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。(コリント人への手紙 第一 2章1-5節)

  コメントを読む()


BACK