2011年10月3日(月)


悲しんでいるようでも

弱くて見栄えのよくない土の器(私)を通してイエスさまは働かれる。イエスさまがいなかったら怖くて仕方ないけど、イエスさまがいてくださるから私は大丈夫。つらくて泣いちゃうけど、涙をふいたあとに、またイエスさまを喜んで語りたいです。

「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(コリント人への手紙 第二 4章6-10節)

私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(コリント人への手紙 第二 6章8-10節)

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