2011年12月17日(土)


義人は信仰によって生きる

聖書の言う「悪者」とは、神さまに信頼せず、自分の力で何かをしようとする(できると思ってる)人のことで、必ずしも警察に逮捕されたり、刑務所に入ったりした人のことではないと思う。同じように「正しい人」とは、自分の弱さ、愚かさを認め、自分をあてにせず、神さまだけをあてにして生きる人のことで、表彰されたり、社会的に立派な人のことではないと思う。私は「悪者」と「正しい人」のあいだを揺れ動く者だと思います。人は何かができると思ったら、すぐ高ぶります。でも神さまをあてにすると、希望、喜び、感謝が生まれます。私が「正しい人」になるときは、神さまが私をそうしてくださるからだと思います。私はみこころ(律法)をなかなか行えない者ですが、神さまはそんな私をイエスさまの十字架のゆえに義と認めてくださいます。私はそんなイエスさまを信じる信仰によって生きています。

見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。(ハバクク書 2章4節)

正しい者らは見て、恐れ、彼を笑う。「見よ。彼こそは、神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる。」しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうしてくださったのですから。私はあなたの聖徒たちの前で、いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。(詩篇 52篇6-9節)

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ人への手紙 2章20節)

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