2020年11月2日(月)


完全なものが現れた

神さまのわたしに対する恵みを、ごはん食べながらぼんやり考えていました。わたしの救いはクリスチャンじゃない人の手を通して始まりました。「死にたい」っていうわたしに三浦綾子さんの「道ありき」を貸してくれたのは、クリスチャンでも何でもない大学の友達でした。聖書を開かせてくれたのは、クリスチャンから批判の的になっている太宰治です。太宰治は聖書や信仰雑誌「聖書知識」(塚本虎二)を熱心に読み、信仰を持ちたいと願っていた人でした。わたしは彼のそんな願いを神さまがかなえてくださらないわけはないと今でも思っているんです。本屋さんであの「道ありき」を何年ぶりかに見つけて、今度は三浦綾子さんをむさぼるように読みました。確かに神さまはわたしを握っていてくださいました。でもわたしは自分の力で教会に行けなかったんです。出社拒否になって、そのあいだに部署が変えられていて、その部署の課長が何とクリスチャンでした。その課長を通してわたしは教会に通うようになりました。でも何年かするうちに、わたしは他の教会員の悪口や批判を受け、だんだん教会から足が遠のいていきました。そのころ「ことばのたねまき」というサイトを教えてくれたのも、クリスチャンじゃない人でした。現在は「キリストの平和教会」を立ち上げられたその牧師先生のメッセージとお祈りに支えられています。わたしは自分で動くと失敗ばかりします。それを別の方法で実現してくださるのが神さまなんです。

完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。(コリント人への手紙 第一 13章10-11節)(@新改訳2017)

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