2022年8月16日(火)


「ムッちゃんの詩」

おととい「日本映画専門チャンネル」で録画した「ムッちゃんの詩(うた)」をきのう見ました。見たいと思ったきっかけは、わたしも本名は「睦美」で、小さい頃は周りの大人や友達が「むっちゃん」と呼んでくれていたからです。小学生5、6年生のころからは、名字のほうをかわいく変えた呼び名で呼ばれるようになったけど。ムッちゃんの本名は山下睦子。横浜に住んでいたけど大空襲で家族を亡くし、生前の母に告げられていた唯一の親戚である叔父夫婦の住む大分へ向かいます。大分で知り合ったのが町子(この映画の原作者。当時6歳)の家族(京都から疎開)です。でもその家族から聞いた話では、叔父夫婦は既に亡くなっていて、その娘(ムッちゃんにとっては従姉)が「色町」で働いていることを聞いて、ムッちゃんは訪ねていきます。そこで彼女と暮らすことになるのですが、ある日ムッちゃんは咳をして血を吐きます。結核でした。そして感染することを恐れた女将さんに追い出されます。従妹はムッちゃんを防空壕の奥に寝かせて、お店で働いては残り物をムッちゃんに持っていきます。ときどき町子とそのお兄ちゃんが浜辺にやってきて、その様子をムッちゃんはぼんやり見ていました。「ムッちゃん何しようるん?」。その後大分も大空襲に見舞われ、多くの人が亡くなり、ムッちゃんの世話をしていた従姉も亡くなってしまいます。一人で防空壕の奥に寝ていたムッちゃん。でもどこかの畑のトマトを盗んで持ってきてくれるおじさん(韓国人)と出会います。しかしそのおじさんも畑の持ち主に捕まって警察に連れていかれるのです。再び一人ぼっちになってどんどん衰弱するムッちゃん。ある日町子が来たとき、ムッちゃんは「わたしの代わりに町子ちゃんが娘になったとき、お母さんにお赤飯炊いてお祝いしてもらって」って言って、お母さんが作ってくれた小豆を入れたお手玉を渡します。そしてムッちゃんは一人で死んでいきます。戦争が終わって、町子の家族が防空壕からムッちゃんの遺体を荷車に載せて運んでいるところに、警察から解放された韓国人のおじさんがやってきて、毛布をめくって大泣きして、トマトをムッちゃんの口に当てます。見てるわたしも泣きました。原作者の町子さんは娘になったとき(初潮が来たとき)、ムッちゃんからもらったお手玉の小豆をお母さんに渡したんでしょうか?この映画の冒頭に町子さんがムッちゃん記念像の前にお手玉を置いたシーンがありました。ムッちゃんはお手玉で遊びながら、お母さんに教えてもらった詩(うた)を歌っていたんです。「ムッちゃんの詩」が映画化された1985年、町子さんは46歳でした。1977年(町子さん38歳)に初めて新聞に「ムッちゃん」のことを手記として投稿したそうです。自分に初潮が来て、結婚して、母親になって、そして彼女の娘にもたぶん初潮が来た頃かもしれません。それで町子さんはムッちゃんのことを書かずにはいられなくなったような気がします。これは全部わたしの想像です。ムッちゃん平和像は大分市の平和市民公園のわんぱく広場にあるそうです。

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