幼いころから内気でした。親戚みんなで集まるのがイヤでした。近況をいろいろ聞かれるのもイヤでした。父が市立中学校の教師なのもイヤで、「○○ちゃん(私)は勉強できるんでしょう」って何の根拠もなくほめられるのもイヤでした。私が通ってる中学校の先生がみんな父を知ってるのもイヤでした。私は「教師の娘」「いい子」「勉強ができる」というレッテルを貼られて、それが重くてたまりませんでした。おまけにいとこ(女)の母親も市立小学校の教師、父親も県立高校の教師でした。学校の成績がよくて当然の環境。早く家や親戚や学校の呪縛から抜け出したいと思いました。だから大学は迷わず県外の大学を選びました。 大学に入って、友達を作りたいのと、私は自分で精神的に弱いと思ってたので、硬式テニス部に入ることにしたのですが、練習がきつくて筋肉疲労になって、結果的にやめることになってしまいました。テニスをやめたことで、心にぽっかり穴があいてしまって、友達もなかなかできなくて、お昼休み一人で教室にいたりして、そのうち学校に行けなくなりました。アパートに閉じこもっていました。死にたいと思うようになりました。私が大学を長期欠席していたため、親元に連絡が入ったらしく、父親が一人私のアパートにやってきました。私の話を聞いてくれて、私は初めてそのとき父の涙を見ました。そしてそのまま地元の精神病院に入院することになりました。 入院は閉鎖病棟に2か月ほどで、今ぼんやり覚えてるのは、精神安定剤を飲んで、「筆談のみの会話」「森田療法」「内観療法」「英字新聞の翻訳作業」がその内容で、私の中に自殺願望がなくなったわけではありませんでした。最初は誰の目も気にしなくていい入院生活が心地よかったけど、起きて英字新聞の翻訳作業を始めた頃から、通学している高校生が鉄格子の窓から見えると、病院を出たくてたまらなくなって、先生に訴えました。「英字新聞を全部訳せたら退院を許可します」。早く退院したくて、ところどころ翻訳を飛ばしてズルをしましたが、先生には気づかれませんでした。私も青春したい。20歳の冬でした(私は成人式には出席していません)。 退院しても精神安定剤は飲み続けていました。でも死にたい思いは消えません。失踪願望も消えません。ある日、今までに一度だけしたアルバイト先で知り合った友達(大学は違う)に電話して、死にたいって言いました。涙は出ませんでした。「何言うてんのん。おいでよー」。私は少し離れたところに住んでるその友達に会いに行きました。そのときに友達は、いろいろ話を聞いてくれて、「これ読んでみなよ。生きる参考になると思う」。三浦綾子さんの「道ありき」でした。その友達はクリスチャンではありません。そのときはその本を借りてアパートに戻りました。当時は読んでもあまり心に響きませんでした。でも死にたい思いはおさまっていました。 その後、私は太宰治の「人間失格」が気になって、一度読んでみたいと思うようになりました。今の私は「人間失格」だと思っていたので。そしてそれを読んで衝撃を受けました。その主人公の思いはまるで私みたいでした。それに太宰治の文章は私個人に語りかけてくる感じがして、私は恋をするように太宰治にのめりこんでいきました。作品は全部読んでしまいました。 やがて私は東京の会社に就職が決まり上京しました(住所は千葉県松戸市)。そこでも太宰治に対する熱はおさまらず、今度は太宰治論的なものを片っ端から読み漁っていました。東京の神田駿河台の古本屋街にもよく通ったし、三鷹市の禅林寺にお墓参りにも行きました。 そしてそのころ巡り会った本が「太宰治におけるデカダンスの倫理」(佐古純一郎)でした。大学に入学してすぐ、オリエンテーションが行われる教室で、始まるのを待っていたときのことです。2、3人の男の人が教室に入ってきて、座っている新入生の机の上に何かをポンポンポンって配り始めたのです。それは小さな聖書でした。私はその聖書を今まで持ってて、「太宰治におけるデカダンスの倫理」を読んでるとき、本棚から取り出して開いてみたのです。そのときその本に引用されてて、聖書で確認した聖句で今でも覚えてるのが、ローマ7章10節だったと思います。 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。(ローマ人への手紙 7章10節) その後、何がきっかけだったのか忘れてしまいましたが、私は友達の貸してくれた「道ありき」のことを思い出すのです。会社帰りに近くの本屋さんで「道ありき」を見つけ、再び手に取りました。その後、三部作の残りの二つ「この土の器をも」「光あるうちに」も買ってみました。その後、今度は三浦綾子さんにのめり込んで、通勤電車の中でむさぼるように読みました。涙をこぼしながら読みました。神さまのところに行きたいと思うようになりました。 会社帰り、冬の夜道を、教会を探してうろうろしたりもしました。たぶん私は、教会が開いてたら、礼拝堂の椅子に座り込んで泣くと思いました。でもやっと探し当てた教会は閉まってて、入ることができませんでした。がっかりしました。それでも次の日、会社の業務中に(仕事をサボって)その教会に電話してみました。そしたら電話がつながって、私は「初めてなんですけど」って言ったけど、電話の担当者の方は事務的で冷たい感じで、礼拝と祈り会と学び会の時間(その時間だけ開いてるみたい)を教えてくれただけでした。私はそのときその人が私の話を優しく聞いてくれることを期待していました。それは言い換えれば、神さまにではなくて人間に期待していたということです。それでさらにがっかりして、私はそれ以来、教会を探すのをやめてしまいました。 その後、会社の人間関係から、私は出社拒否になってしまいました。そして私の出社拒否の最中、私は部署を異動させられていたのです。ある日、新しい部署の課長から電話がありました。「○○さん(私のこと)?どうしてる?」。その上司は、私が会社に出て来れないなら、東京駅ならどうか聞いてきました。私は「東京駅ならいいです」って言いました。 東京駅のホームのベンチでその上司と話しました。ひとしきり話したあと、その上司は私に「ボクね、実はクリスチャンなの」って言いました。私はハッとしました。私は三浦綾子さんの本を読み漁ってたことを話しました。そしたら上司は「今週の土曜日、僕の家で家庭集会があるんだけど、来てみない?イヤだったら無理しなくていいからね」。私は「行きます」って言いました。 <自分の罪を知った聖句> アパートでごはん食べながら聖書を読んでたときの、ローマ7章15節。それ以降もそうかも。口に食べ物が入ったまま、泣きじゃくってました。 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。(ローマ人への手紙 7章15節) それから、ローマ2章1節。そのときは泣かなかったけど、ドキッとしました。神さまはすべてお見通しだと思いました。 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。(ローマ人への手紙 2章1節) <洗礼を受けた日> 1991年10月13日。明け方はまだ台風が通過中でした。でも出かけるときはもう雨は降ってなかったように記憶してます。でも念のために傘を持って礼拝に行きました。礼拝が終わったあと、洗礼式がありました。上司がみことば朗読とお祈りをしてくださいました。 |
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私はきょうまでさすらいの 旅を続けておりました 光を受けたこの日をば 境に罪と別れます 世の罪人を救うため お死になされたキリストよ けがれも罪も洗い去り 清い私となしたまえ 私の神よキリストよ 他には誰も頼りません あなたばかりを当てにして この世の中を旅します (聖歌418番) |
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<証しの品> ささやかだけど、以下は証しの品です。私をあきらめない神さまの愛がわかるような気がして、見てると涙が出ます。神さまのもとに来れてホントによかったと思います。 |
東京の会社に就職して1年ほどたったころ、半休(午後から休み)を取って、平日昼間のほとんど誰もいない禅林寺(三鷹市)に、太宰治のお墓参りに行きました。6月初めごろです。行く途中、お花とカップ酒を買いました。お墓の前で「あなたのことが好きです」とか言って、めちゃくちゃ恥ずかしがってました(笑)。この札は禅林寺で売ってたものです。太宰のふるさと金木町のヒバの木で作られたもので、買った当時はとてもいい香りがしていました。 |
三浦綾子さんの本です。友達が貸してくれて、後に三浦綾子さんの本を読むきっかけになった「道ありき」もあります。 |
私はまず太宰治を読み始めました。 |
大学に入ってすぐ、オリエンテーションのある教室で配られた聖書です。 |
表紙を開くと、大学の近くのキリスト教会のスタンプが押してあります。 |