今この世に生きているのは


きょうは朝からうれしくて。イエスさまをとても素直に見上げられるから。会社でお仕事しながら、「イエスさま、こんなに素直にイエスさまのこと見上げられるなんて、うれしい。ありがとうございます」って言ったら涙が出ました。しばらくイエスさまを素直に見上げられない状態が続いてたから・・。私はもうイエスさまなしじゃ生きていけない。イエスさまがくださる喜びがない状態なんて、苦しくて生きていけないのです。

主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。(詩篇 92篇4-5節)

もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。(詩篇 119篇92-93節)

イエスさまを知らない人には、私の言いたいことわかんないかも・・・?木枯らしの吹く寒空の下で風を避けながら、頼る人もいない空腹と孤独を過ごしていた人が、ある日を境にして、暖かい家が与えられて、いつもそばに自分を大切に思ってくれる人もいてくれるようになり、その人の心には笑顔が戻りました。それなのにその人は、もとの生活に戻りたいと思うでしょうか?一度この幸せを知ったその人は、再びもとの生活に引き戻されたら、たぶん昔のようには生きて行けないでしょう。へんなたとえだけど、たぶんそれが今の私。昔のように、神様の愛も知らず虚無感を持ったまま生き続けるなんて・・。とても生きてはいけない。「虚無感」が苦しいことって、たぶん誰でもみんな何となくは自覚しているはず。でもその苦しさをあまり「苦しい」と感じていない。イエスさまが私の心の中に入ってくださって、虚無感を覆いつくしてくださったとき、私は初めて「虚無」の苦しみがこんなにつらいことだってわかったんです。だから再び「虚無」に陥ると、以前にも増してつらい。だから知らず知らずのうちにイエスさまを求めてしまう。イエスさまの安らぎに入ると、虚無のつらさから解放されて、泣かずにはいられない。イエスさまのくださる喜びに感謝せずにはいられない。「虚無のとなりに神がいる」。誰が言ったのか忘れたけど、ふと今、思い出した・・。

それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。(ローマ人への手紙 8章20節)

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ人への手紙 2章20節)

きのうは会社から帰って、ごはんを炊く用意をしてから、おこたに仰向けに首まで入って、(体しんどくて)ぐったりしてたくせに、ごはんのあと、「お見合い結婚」(フジテレビ午後9時から)を見ました(いつも見てるし)。そしてエンディングは、松たか子の曲「桜の雨、いつか」が流れて・・・。それはたぶん、松たか子が、好きな人との待ち合わせ場所(川の土手?)に自転車で行くシーン。約束の場所に着いて、その人のそばに小走りに近づいたら、その人の腕が伸びて、赤いマフラーをかけてくれるの。それ見てたら、なぜか涙が出ました。そのときなんとなくわかったんだ。「最近、幸せそうなカップルを見ると、うれしくて、私もほんわりあったかくなる」理由が・・・。それは、私が「恋すること」をあきらめてるからなんだって気づいたの。どんなカップルを見ても「うらやむ」思いがほとんどない(だいぶ昔にはけっこうあったような気がする)のは、たぶん、私はもう恋をすることはないと思っているから。だって私は好きな人とデートする力がないもん。どこかで会うためにわざわざおしゃれして出かけていく力ないし、相手を家に呼ぶには部屋を掃除しなきゃいけないけど、その力もない。もし会えても、食事の後、トイレに時間かかったり、あとで他のところへ行く途中にトイレに行きたくなったりしたら恥ずかしいし、ガマンするのは苦しいし、相手を待たせちゃうのは悪いし・・・。一人でいるのが一番楽だって思うの。

だけど、私ぜんぜん失望なんてしてない。暗くなんてならない。だって、今だって、すぐチラッてイエスさまのこと見るから。すると急にうれしくなる。なんでだろう。わかんないけど。たぶんイエスさまは、私が弱ければ弱いほど、私の心の中に入ってきて、慰め、力づけてくれるから。ふしぎ・・・。

しかし、主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(コリント人への手紙 第二 12章9節)

だけど、肩に手を回してほしいな。抱き寄せてほしいな。ほっぺにキスしてほしいな。人のぬくもりも、やっぱり感じてみたいな・・・。

少し寒さがゆるんだら
松たか子みたいに
ほっぺを赤くして走って行くから
マフラーかけてね
わざとマフラーせずに行くから

あなたと並んですわったら
背中ポカポカ
草の匂い

あ、つくし。
おまえ、恥ずかしそうにお顔出すのね
かわいー
このまま春がくるのかな

あなたも、なんだか恥ずかしそう


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