詩人の古志秋彦さんから、『ルベーグ積分序説』『数学科先生』という詩集を送られた筆者(産経新聞校閲部長の塩原経央さん)が書いていた文のなかに、次のような箇所がありました。
目からうろこが落ちるような思いでした。これ読んで、神さまも同じことなのかもしれないって思いました。無限の神さまを私は有限にっていうか、人間のレベルまで知らず知らずのうちに引きずりおろしていたかもしれない。 わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―― 主の御告げ。―― 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ書 55章8-9節) このみことばの中の「神さまの思いの高さ」は、私の考えている「高さ」(崇高さ)とは少し違うものなのかもしれない。例えば3次元の世界(この世)には縦と横と高さがあって、体積を求めるには「縦×横×高さ」でいいでしょ。でも4次元の世界だったら、縦と横と高さの他に何かもう一つあるんだと思う。そんなふうに4次元の世界を考えたときの、理解を越えた不思議さ。また宇宙は、人間の頭では、果てがないとしか考えられていないけど、そんな宇宙を思うときの不思議さ。このみことばの「高さ」には、そんな不思議さも含まれているような気がする。 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」(コリント人への手紙 第一 8章2節) そもそもイエスさまが、この世に人としてお生まれになったことも、 わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネの福音書 10章10-11節) 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイの福音書 9章12-13節) なんて書いてあって、イエスさまが十字架にかかって死んでくださることで、どうして私の罪が帳消しになるのか、まったく意味不明(十字架に架かられたのは大昔のことでしょ)。人間の頭ではわからない。これを人間の知識にまで下げて理解したつもりになるのは、「無限に対する畏敬の念が足りない」からなんだと思う。聖書に書いてあることはそのまま受け入れるべきものであって、解釈したり研究することは「信仰」になんのプラスにもならないのは、イエスさまが聖書学者や律法学者たちを忌み嫌われていることでもわかると思います。 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。(ヨハネの手紙 第一 1章10節) このみことばも今の私には真実だってわかります。でもこれを読んでくださっている方の多くは、「私は罪なんて犯してない。まじめにいっしょうけんめい生きてきたのに、罪人扱いしないでよ。警察に捕まるようなあんな人とは違う」って思われるかもしれません。だけど聖書には、「あなたの罪のためにわたし(イエスさま)はあなたの身代わりになって死んだ」って、ちゃんと書いてあるんです。信仰って、「自分の頭ではまったくわからないけど、そう信じます」から出発するのです。そうしたら神さまは、あなたがどんなに罪深い人間かを教えてくださいます。 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(ヨハネの手紙 第一 1章9節) とにかくイエスさまは、私の罪の身代わりに十字架にかかって死ぬために、この世に生まれてきてくださったのです。 |