たましいは知ってるみたい


きのうテレビである番組を見ていました。

戦時中の昭和18年12月24日。東京大田区の大森収容所で小さなクリスマスミサがとりおこなわれたそうです。その収容所には外国人兵士たちが囚われの身になっていました。そこの看守は自分の権力を誇示するために、気まぐれに一人ずつ捕虜たちをある部屋に呼んで、そこで力の限り執拗に捕虜を痛めつけていたそうです。そのような中で彼らは、遠い異国の地でもクリスマスを祝いたくて、このミサを計画したのでした。捕虜たちはただ一人心を許していた通訳の日本人にその計画をうち明けました。そしてその通訳の日本人が日本の教会の牧師に収容所でミサをしてくれるように頼み、またその日看守を外出させることにも成功し、彼らは無事ミサをとりおこなうことができたのです。ミサのあいだ、彼らはみな涙を流していました。

その再現映像を見ながら、「あー、泣いちゃう気持ちわかるー」と思って、私ももらい泣きみたいに涙ポロポロしてました。私は涙を拭きながら、やっぱり私のたましいはイエスさまが私にしてくださったことをちゃんとわかってるんだと思って。。私自身はあんまり覚えてない。だってイエスさまがしてくださったことをひとつひとつ数えてみようとしても、あんまり出てこないから。おまけにそんなこと数えている自分が偽善者に思えてきて、急に白々しくなって、数えるのをやめてしまう。教会に行くと食事の前には誰かが代表して感謝のお祈りをする(他の人もそのお祈りに合わせてお祈りする)けど、私はどうして食事前に感謝の思いが出てくるのかわからない。教会以外では私は食事前に感謝のお祈りをしたことがない。朝起きたときも同じ。立派って言われるクリスチャンは、毎朝早起きをして、「きょう一日のお導き」をイエスさまにお祈りするのでしょう。私はおふとんの中でグズグズしたあげく、ガバッておふとんから出て、お弁当を作って、ごはん食べて、トイレ行って、歯磨き、洗顔、お化粧・・・、戦争のような忙しさで、会社に出かける。電車の中では眠りこけて、会社では上司に心の中でブツブツ文句を言って、プライベートではイエスさま第一ではなく、さみしくて、恋人や仲良しの友達を欲しがる思いばかり。もちろんイエスさまに感謝することもないし、人にイエスさまのことを紹介したいなんて思いもない。「イエスさま?今はそんな気分じゃない」っていうのが正直な思い。教会も朝起きられないことを理由に最近1年は全く行っていません。

なのに何でこんなに涙が出るのか不思議でした。テレビの前で泣いてたけど、トイレの中でも涙が止まらずに、「私は(イエスさまの喜ばれることを)何一つできないです。でもイエスさま、感謝します」って言ったら、心の中があったかかった。うれしかった。「イエスさまが私を愛し、私の罪のためにご自身を犠牲にしてくださったこと信じます」って言いました。そして、私の今のこの喜びをどうして他の人に伝えることができないんだろうって思った。今まで何人かの人に伝えようとしてみたけど、伝えられない。不思議。イエスさまを知ってほしい人、今も一人いるのに。

イエスさま!イエスさまがその人にこの喜びを教えてあげて!


BACK