救いについて


先日ふと、3年ほど前に切り抜いていた新聞の記事のことを思いだし、引っぱり出してみました。この文章を切り抜いた理由は、私が神さまを求めてさまよったときのことを、その文章によって思い出したからです。今から7年ほど前の冬のことです。私は会社帰りに、教会を探して、真っ暗な夜道をうろうろさまよっていました。もう生きていけないと思いました。教会にたどりついたら、座り込んでしまいそうでした。あのときの夜を思い出すたびに、私は私を救ってくださった神さまの愛とあわれみを思います。

もうすぐクリスマスです。世界中でたくさんの人が大きな喜びをもってお祝いをする日なので、クリスチャンでない私などにも、インパクトのある日です。クリスマスから年末シーズンと、子どもを扱った物語はたくさんありますが、頭に浮かんでくるお話にはかわいそうなものが多いように思います。「マッチ売りの少女」はまちの片すみで、「フランダースの犬」のネルロ少年はあこがれのルーベンスが描いた教会の絵の下でおなかをすかして死んでゆきます。でも、ここで注目すべきなのは、二人とも、とても幸せな死の瞬間が与えられ、天国へ迎えられていることです。ギリギリの状況におかれた小さな者、弱い者への神様からの究極の愛のメッセージが、それぞれの作者の筆をかりて伝えられているのでしょう。
(日付不明 朝日新聞家庭面「わくわく子育て」より)

「救い」って何でしょう?神さまを知らない多くの人は、病気がなおった、借金を返済できた、・・・など「助かった」と同じ意味で「救われた」という言葉を使っていることが多いように思います。でもホントはホントはたましいのことなのです。私もうまくは言えませんが、自分が神さまの御手の中に守られていることを信じられるようになることだと思います。そう信じることができるとき、とても幸せです。神さまに守られていますから、どんなつらいことがあっても安心です。「マッチ売りの少女」も「フランダースの犬」のネロも幸せにつつまれて、この世を離れ、天国に迎えられたのです。肉体の死はその人の終わりではないのです。

さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(マルコの福音書 10章13-16節)

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(コリント人への手紙 第一 1章27-29節)

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイの福音書 5章3節)

悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(コリント人への手紙 第二 6章10節)

私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。(コリント人への手紙 第二 5章8節)

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ人への手紙 15章13節)


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