孤独感と虚無感


最近、槙原敬之(まきはらのりゆき)の昔のアルバムを引っぱり出して、このところ毎日のように聴いています。そしていつもある曲の歌詞のある部分が妙に気になるのです。

どれだけたくさんの人に囲まれていても、なぜか独りでいるような気持ちがずっと消えなくて。でも無理に首を横に振っていたけれど、きっと誰もがみんな「違う」とは言えずにいるはず。(槙原敬之「北風」より)

この曲を初めて聴いたときは、神さまのことを知らなかった私。当時この歌詞を聴いて何を思ってたのかなって思い返してみたけど、何も思い出せませんでした。

空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。(伝道者の書 1章2-3節)

私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。(伝道者の書 2章10-11節)

私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。」私は心の中で語った。「これもまたむなしい。」と。事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、いっさいは忘れられてしまう。知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。私は生きていることを憎んだ。日の下で行なわれるわざは、私にとってはわざわいだ。すべてはむなしく風を追うようなものだから。(伝道者の書 2章15-17節)

人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べねばならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋(かいじゅう)で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかってない、という事になりそうです。(太宰治「人間失格」より引用)

イエスさまを信じて2年くらいたったころ、通ってた教会で「米子(よねこ)」っていう映画のビデオテープを借りました。確か最初、夜の繁華街(ディスコなど)で若者が遊び歩いてるシーンがあって、そして次のシーンである一人の若者が鉄道自殺を図るのです。その人が米子さんでした。私は自殺を図るシーンで一瞬映った教会を見て、しゃくりあげて泣いてしまいました。米子さんは心の穴(孤独と虚しさ)を埋めるために遊び歩いてたんだと思います。

「人の心の中には神さまの形をした空洞がある」って誰かが言ったそうです。「この世のどんな楽しみも、名誉も、人の優しさも、恋愛も、その他どんなものも、その空洞を埋めることはできない。ただ神さまを信じ受け入れ、神さまが心の内に入ってきてくださったとき、その空洞は神さまによって完全に埋まるのです」。神さまは人間をそのように造ってくださいました。神さまはそんなに人間ひとりひとりといっしょに住みたいと願ってらっしゃるんだと思います。孤独感や虚無感は、創造主である神さまから離れてさまよってる「しるし」なんだと思います。

と言っても、神さまを知ることができた今でも、私はときどき虚無感におそわれます。うつで体がしんどいのに、おしゃれじゃないと恥ずかしいと思って、通勤のための服を買いに行って、長時間悩んだ末にやっと1着(上下)買ってきて、くたくたになったりします。でもそんなとき、苦しみの中で思わず神さまを見上げると、いつもポロポロ泣いてしまいます。そして喜びに満たされ、虚無感はいつのまにか消えてなくなっているのです。ホントは神さまのところにいるのがいい。なのにいつも神さまを離れて、自分の力や自分の思いで無理に突っ走ってしまう私。神さまを見上げたり、神さまを忘れたり、その繰り返しです。ふらふら迷い出る愚かな羊の私を、牧者であるイエスさまはすぐに連れ戻してくださいます。

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』(マタイの福音書 4章4節)

地の深みは主の御手のうちにあり、山の頂も主のものである。海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。(詩篇 95篇4-7節)

主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。(詩篇 145篇9節)


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