イエスさまがくださった


きょう洗濯物を干しながら、同じアパートの人と立ち話をしていました。すると不動産屋さんがやってきて、「新しいモデルの家をご紹介したい」というのです。私はずっとその手の勧誘はいっさい断っていました。だから今回も「要りません」って断ったのですが、「月々の家賃を払うように払っていける」としつこいのです。だから言いました。「私、無職のとき、家を探してましたけど、どこも貸してくれませんでしたよ。でもここの大家さんは貸してくれたんです。だから今後も他の所に住む気はありません」って。「あ、つらかったんですね。わかりました。どうもすみませんでした」。

その人が帰っていったあと、「ホントはイエスさまがくださった家だから離れたくないんだよ」って心の中で言ったら、涙が出ました。不動産屋さんにあんなこと言ってしまった私だけど、かつての無職の私に家を紹介してくれなかったからといって、不動産屋さんを恨んでいたわけではありませんでした。このすてきなボロ屋にたどり着かせてくださったのも、イエスさまのお導きだと思ってるから。不動産屋さんがしつこく勧誘するから、あんなふうに言っただけ。このボロ屋は、トイレはくみ取り式、おふろの戸は友達が来て閉めようとすると必ず外してしまう、玄関の戸はしょっちゅうカギがかからなくなって修理してるし。でもとっても大切な私の家。

きのうお給料日だったんだけど、いつもより少し多めに入っていました。時給を1,270円から1,400円に上げてくれていました。この冬のボーナスは18万円ももらえたし。いやなことも多いけど、この職場もイエスさまがくださったから、自分の思いでは何があっても離れないようにしようと思った職場でした。この職場は不況の下(3年近く前)に与えられました。イエスさまには不況なんて何の関係もないから、「不採用」の連続でも世の中を呪う気持ちはありませんでした。ただイエスさまが私をこれから先、どう導いていってくださるのかが気になっていました。

でもそんなものより何より、イエスさまは私に信仰をくださいました。きょうのクリスマスの日に、イエスさまに心から感謝のお祈りできてうれしかった。形式的な催しのために教会に行きたくない。偽善的になってしまう自分がいやだから。ボロ屋の中であっても、イエスさまに心から感謝できることのほうが私には大事。それが私の力のもと。この世を歩んでいくための力のもと。

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタイの福音書 6章31-34節)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(コリント人への手紙 第二 4章18節)


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