2009年7月13日(月)


あなたの罪を思い出さない

こないだの続き。人間社会の方法で罪を償って、刑務所から出てきた春男。「白い春」の脚本を書いた尾崎将也さんは、それでも春男の罪は消えないと思ったんだと思う。春男が殺した被害者の息子にとって、春男は、刑期を終えたとしても、依然として許せない人間だったから。人間には自分の罪は消せないし、他人の罪を消すこともできません。善行を積んでもだめです。うわべが「いい人」はこの世にいっぱいいます。でも人間の罪の本質は、生まれつきのもので、ある部分を静めても、別の場所からまた罪が顔を出します。カビの菌糸がパン全体を占拠してるようなものです。だから神さまの判断は、すべての人間は廃棄されなければいけないのです(永遠の死。天国に行けません)。パウロは言いました。「誰がこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24)。春男の罪を赦すのは、裁判官でもなく、刑務官でもなく、被害者の息子でもなく、康史でもありません。神さまなんです。神さまが「赦す」って言われたら、死刑囚でも赦されます。廃棄の対象から外れます。誰かに聞いた話だけど、アメリカでは、死ぬ間際とかに、日本人のように「神さま、助けて」って言わないんだって。「神さま、ごめんなさい」って言うそうです。神さまに造られたのに、神さまを無視して、自分勝手に生きてきて、罪にまみれた自分を意識するんだと思います。そんな人間でも、神さまのほうに向き直ったとき、神さまは憐れんで、赦してくださいます。神さまは赦したくて仕方ないんだと思います。人間ひとりひとり、神さまの作品(愛の対象)だから。イエスさまは私たちの身代わりになって(私たちの罪を背負って)十字架で死んでくださるために、この世に来てくださいました。

悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(イザヤ書 55章7節)

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ書 43章25節)

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書 3章16節)

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