2018年7月13日(金)


私は拝まないので

けさ買い物に行く前に一度お隣のおばあちゃんとは会ってたんだけど、買い物から帰ってアパートの前の道とかのお掃除が終わったとき、またおばあちゃんが外に出てきて、「おととい成田(おばあちゃんのふるさと)に帰ったの。これ、おみやげ。成田山のお守り*^^*」って、私に小さな袋を渡してくれました。私はまだおばあちゃんに私がクリスチャンだってことは言えていません。おばあちゃんも私の玄関の壁のタペストリー(→ こちら)を見ても「かわいい」とは言ってくれるけど、みことばには気づいてくれてません。私はそのおみやげを「ありがとう*^^*」って笑顔で自然な感じで受け取りました。手を洗ったあとで、袋を開けてみると、こんなのが入ってました。→ 成田山アクセサリー

「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(使徒の働き 17章22-31節)

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